REPORT活動報告

西福寺で実施すること、実施したことを随時掲載しています。是非御覧ください。

2019年度 報恩講のご報告

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2019年11月18日に西福寺報恩講を厳修いたしました。

ご法話は、西尾市本澄寺 住職 であり、三河スーパー絵解き座座長の梛野明仁 師にお越しいただきました。

 

 

以下、法話内容

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皆さん朝晩と一日に二回仏様の前に座ったら、ややしばらく仏様のお姿を仰ぎ見てください。お鈴を鳴らしたら、必ず正信偈を勤めましょう。そしてもう一つ大事なことはお念仏を申してください。「南無阿弥陀仏(ナムアミダブツ)」と、自分の声で称えることが大事です。

今日、お参りくださった皆様には、まだ寺で報恩講があるというと昔のお年寄りたちは「南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。」と言って、お念仏とともに参ってきたことがなんとなく面影としてわかるのではないでしょうか。ですが、皆さんの孫はもうわからないですよね。何でと言えば、そりゃ皆さんがやっとらんもの。これは私たちの責任ですよ。お念仏を申す。蓮如上人が御文様に何度もおっしゃっている。「寝ても覚めても称名念仏すべきものなり。あなかしこ。あなかしこ。」称名念仏とは「南無阿弥陀仏」って声に出して称えることです。

親鸞聖人の御命日を報恩講というのです。でも親鸞聖人は私に参れとは言わない。参るのは南無阿弥陀仏だと。親の法事を勤めるのも同じです。「南無お父さん」「南無お母さん」じゃないのです。お父さんもお母さんも、その前のおじいさんもおばあさんもそのずっと前も、みんな南無阿弥陀仏なのです。

私たちの心根にある自分が「ああなりたい、こうなりたい」という浅い話じゃないのです。「もっとああなりゃにゃ、こうなりゃにゃ」という前に、今日という日に命をいただいたお互いさまじゃないですか。それを忘れて人の愚痴を言ったり文句を言ったり。そんな私が手を合わせてみたら、なんと申し訳のないことばかりでありました。いつでもどこでもいいのです。仏様の前に座った時だけじゃない。手に念珠をかけた時だけじゃない。寝ても覚めてもだから。

私のお薦めは、皆さん夜中にお手洗いで起きる晩があるでしょう。お手洗いというところはまた尊いところですね。私たちはお手洗いを汚いところだと思っているでしょう。あれ、何で汚いかって言えば、私の汚いものを全部受けとめてくれるから汚いと思うのでしょう。私たちの汚いものを受けとめてくれるお手洗いって尊いね。そうやって尊いと思ってお手洗いを使っていますか。使ってないですよね。それも南無阿弥陀仏なのです。

確かにお手洗いで申すお念仏も尊いけれど、私がもっとお薦めしたいのは、お手洗いから戻って床に就く。すっと寝られる晩もあるけれども、寝られない晩もあるじゃないですか。夜の寝覚めの寝床の中で、右に寝返りうっても休まれず。左に寝返りうっても休まれず。誰に聞いてもらいようもない。誰に打ち明けるようでもない業を抱えて、拭っても拭っても拭う下からはらはらとこぼれ落ちる涙の晩もあるわな。そんな時に大きな声でなくてもいい。我が耳に聞こえる程度でいい。「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と、私一人が泣いているのではないのです。阿弥陀様は私のそばを離れずに同じ苦しみを味わっておってくださったか。愚痴を言ったり文句を言ったり。ああなんと申し訳のないことであったか。「帰命無量寿如来、南無不可思議光・・・」これはただ事ではなかったなと頂戴いたしました。

今日、お寺から出たら忘れてしまってもいいのです。また明日思い出させてもらうから。それが私たちの朝晩二回と仏様の前に座るという生活の意味なのです。

(文責:住職)